昭和100年に寄せて
お久し振りです、弁護士の山本です。
寄る年並みのせいか,体調を壊してしまい3月11日のご挨拶から時間が経ってしまいました。
今年は、昭和元年から丁度100年を経過しているとの事です。
私も、昭和20年の戦争終結後でありますが,未だ日本が貧しい時代に生を受け、昭和の苦しさを感じながら生活を送ってきた時もありました。ただ、日本人の勤勉さ故、幸いにしてその後の高度経済成長時代を経験し、現在に至った次第です。
そして、そのような同世代の勤勉な人々と、時代を共有していると一方的に思っている私にとって、かかる人々が段々鬼籍に入るのをマスコミ等で知る機会が多くなりました。
私は、子供のころから、特に映画・演劇やスポーツに興味があり、俳優さんやプロスポーツ選手の現在については注意を払っていました。
前書きが長くなってしまいました。
実は、私がここで述べたかったのはプロ野球読売ジャイアンツの選手・監督であった長嶋茂雄氏の事です。
以下に、同氏の略歴を記載します。
1936年 | 千葉県で誕生 |
1954年 | 立教大学入学 |
1958年 | 同大学卒業 読売ジャイアンツ軍入団 初年度成績 打率3割5厘 本塁打 29本 打点 92点 |
1965年から1973年まで (9年間) | 読売ジャイアンツ軍の一員 セ・リーグ及び日本シリーズ制覇 |
1974年 | 現役引退 読売ジャイアンツ軍監督就任 監督成績 セ・リーグ5回 日本一2回 |
1980年 | 読売ジャイアンツ軍監督辞任 |
1993年 | 第2次読売ジャイアンツ軍監督就任 |
2001年 | 同監督退任 |
2025年6月3日 | 逝去 享年89歳 |
ざっとした略歴ですが、正直なところ監督としては、日本一を9回連続した川上氏には敵わないというところでしょう。
しかしながら、選手としての長嶋氏の人を引き付ける魅力、そして一個人としての思わず笑えるエピソードを考えると、やはり素晴らしい人だったなと亡くなられて思う今日この頃です。
先ず、選手としての魅力を挙げてみます。
プロ野球選手1年目での驚異的な成績です。ホームランと打点は個人成績で1位であり、打率も1位の阪神田宮選手の3割2分に次ぐ3割5厘の2位です。
その他では、何といっても昭和天皇ご夫妻が初めてプロ野球観戦した試合、所謂天覧試合で2本のホームラン、しかも2本目は天皇ご夫妻が帰路につく予定の9回裏に劇的ホームラン打ち、まさにドラマチックというしかない所業でした。もっとも、打たれた阪神の村山投手は、亡くなるまであれはファールだと言っていたそうです。
その他、毎年甲子園球場は、8月に高等学校野球が開催されるため、その間阪神は俗に死のロードと呼ばれる遠征に出ている日程が組まれています。その為ロードゲームが終わる8月の後半に、巨人との試合が組まれ、毎年の様に阪神は江夏・巨人は堀内を中心とした熱いゲームが繰り広げていました。
一方、個人としての笑えるエピソードとしては、息子さんを後楽園に連れてきたのは良いのですが、その息子さんを忘れて帰宅してしまったという有名な話があります。
また、長嶋語録として、「失敗は成功のマザー」「魚へんにブルー」「いわゆる一つの」等々,奇想な発想が多くの人を驚かせていました。
最後に、長嶋氏の生涯成績は以下の通りです。
打率 | 打点 | 本塁打 |
---|---|---|
3割5厘 | 2471点 | 444本 |
首位打者 | 本塁打王 | MVP |
---|---|---|
6回 | 2回 | 5回 |
誠に輝かしい成績です、ただ本塁打については本当ならば445本打っていたのです。ところが、1塁ベースを踏み忘れたため、投手ゴロとして処理され1本本塁打を損したことになりました。
この試合は、1958年9月19日後楽園球場で、対戦相手は広島カープでした。
実は、この試合を私は後楽園球場で直接観戦していたんです。長嶋選手が本塁打を打ったと喜んでいたら、1塁ベース付近で広島の1塁手藤井選手及び審判また長嶋選手が集まって何か協議をしていたんです。そのうち、場内アナウンスで長嶋選手が1塁ベースを踏んでいなかったため、本塁打は取り消され結局投手ゴロとして処理されたとのアナウンスが流れました。
野球のルールではベースを踏む踏まないは、アピールプレイで、審判自ら判断するものではありません。この試合でも広島の藤井選手がアピールしなければ、本塁打だったのです。
後で審判の言葉を聞いたのですが、長嶋選手のベースを踏み忘れた行為はこの時だけではなく、相手方からアピールが無かったため、そのまま認められていた事もあったようです。
以上のような長嶋選手のキャラクターがフアンから愛され、将に昭和を生きた人として、亡くなった今でも認められているんだと思います。
長嶋茂雄さんまた、黄泉の国で逢いましょう。