赤頭巾ちゃん気をつけて
弁護士の山本です。
前回、「俺たちの旅」という1975年のドラマの話を書いた際、その少し前には日本や外国で学園紛争が起こっていたという事を述べたと思います。
そこで、先ず1970年前後で、日本での学園紛争を述べてみます。
1960年後半は、ベトナム戦争が起こっており、1970年には期限の切れる日米安保条約の自動延長があり、これを阻止ないし廃棄しようとする流れの中、大学運営の権威主義に学生が反発し、多くの学園紛争が起こる事態となりました。
中でも、東京大学の医学部において登録医療制度なるものに反対する学生だけでなく医学部以外の学生を含めた全学共闘会議なる組織が作られ、大学との紛争が究極的に東大安田講堂立てこもりという事態が生じました。その為、これを阻止しようとした大学の要請で、機動隊が駆り出され、これに抵抗した学生の火炎瓶、大きな敷石の投石等が起こり、結局東京大学の1969年の入学試験が中止という前代未聞の結果となってしまいました。先日、NHKテレビのブラタモリで東大の赤門の中のキャンパスが紹介され、安田講堂の学生の抵抗した残滓が遺されていました。
私は、丁度現役の時に東大の入試が中止になり、安田講堂攻防戦をテレビで観た世代なので特に印象に残りました(もっとも、私は東大受験を考えるような優秀な高校生ではないのは勿論ですが・・・・・)。
ここから、東大受験を目指していた高校3年生を主役にした小説を紹介しようと思います。
この小説の題名は、この文のタイトルの「赤頭巾ちゃん気をつけて」で、作家は庄司薫氏です。そして、この小説は1969年の第61回芥川賞を受賞しています。
ストーリーは、上記学生運動盛んな時の、都立日比谷高校3年生男子の庄司薫君を語り手として、或る1日の出来事を饒舌に語るという形式をとっています。因みに、このタイトルの「赤ずきんちゃん気をつけて」は薫君が銀座の街を歩いていた時、かわいい赤ずきんちゃんに出会ったというシーンの記述から付けられたもののようです。主人公の薫君は、当然東京大学を受験するつもりで、周囲もこれを認めていました。ところが学生運動の煽りで、1968年暮れに1969年の東大の入試が中止になることが決定され、ここから薫君の悩みが始まりました。
薫君の両親・兄姉はとうに独立しており相談相手にならず、幼い頃からの女友達は小学校から女子大付属に通っていて、薫君の悩みを理解できないようで、彼女の母親からは東大以外の優秀な国立大学の受験を尋ねられたりしました。
外にも男友達はいたものの、話にならず悩みに悩み、結局大学に行くのをやめる決心をするというのが、「赤頭巾ちゃん気をつけて」の結末となります。
かような、同小説ですが2つばかり余談があります。
最初の1つは、アメリカ文学のサリンジャー作「ライ麦畑でつかまえて」の盗作ではないかという評判が立ったことです。私は浅学非才の身ゆえ「ライ麦畑でつかまえて」は読んでいませんでした。
ただ、私は当時格好をつけたかったんでしょうけど、芥川賞受賞作は受賞後の月刊文芸春秋に掲載されていたので、結構多くの受賞作を購入して読みましたが、その文章の難さに比し、「赤頭巾ちゃん気をつけて」のティーンの口語体での文章の斬新さが大いに気に入りました。
しかし、その後の文芸評論家の作品批評には、盗作等の言葉を使用しないまでも影響力は否めないというのが多数の考え方のようです。
もう1つは、実は映画化されていたことです。
制作会社は東宝、監督は黒澤明氏の第1助監督を数多くこなし、この映画時には東宝のエース監督であった森谷司郎氏で、1970年8月4日東宝で封切られました。
主役の薫君を、岡田雄介氏(本名岡田剛)、その子供の頃からの女性友達の由美を森和代さんが共に、オーデイションで選ばれました。
この2人のプロフィールがちょっと面白いので、最後に紹介します。
先ず、岡田雄介氏は薫君と同じで日比谷高校出身で、オーデイション時には慶應大学に在学中で、更に、彼の父親が映画会社の東映の社長でした。加えて,当時容姿が石坂浩二氏に似ていると言われていました。そして、父親の岡田茂氏が亡くなり、2002年から父親の跡を継いで東映の社長となり、吉永小百合さんの映画等を多く手掛けました。ただ、2020年に大動脈解離を患い71歳で死去しました。
次に、森和代さんは愛知県出身のモデルさんで,容姿を認められてオーデイションに合格しました。ただ、その後、東宝で加山雄三氏の妹役などで出演していましたが、役者さんとしてはあまり認められず、同郷の森本レオ氏のラジオ番組にゲストとしたのをきっかけに、役者は止めて彼の奥様になって生活しているようです。
以上、学園紛争から、色々つまらぬ話に発展してしまい申し訳ありませんでした。